微研の歴史

昭和4年(1929)当時の大阪医科大学(昭和6年大阪帝国大学に移管)学長楠本長三郎と細菌血清学教授谷口腆二は、大阪、神戸がコレラ・ペストなどの外来伝染病の侵入門戸となりつつあったことと、大正12年の関東大震災の教訓から、関西、特に大阪に微生物病に関する総合的研究機関を設立する必要性を説き、当時の大阪府知事柴田善三郎や大阪財界に協力を要請した。

微生物病研究所設立由来銅板額(本館玄関ホール)
山口玄洞氏は、この要請に応えて20万円を寄付し、これにより昭和9年(1934)2月、大阪市北区堂島西町3番地に研究所本館が竣工した。堂島キャンパスには、既に竹尾結核研究所(竹尾治右衛門氏の寄付)と大阪特殊皮膚病研究所(篤志家の寄付)があり、活発な研究活動を行っていたが、これら2機関を併せて、昭和9年(1934)9月17日勅令270号により、大阪帝国大学附置の微生物病研究所官制が公布され、本研究所が発足するに至った。
| 山口玄洞 (やまぐちげんどう) 1863年医師の長男として尾道で生まれる。15歳で大阪に出て、努力の末関西を代表する実業家となる。大正6年には事業から手を引き、自宅で茶道と信仰の生活に入る。自らの財産を公共事業や社寺への寄進という形で社会還元。 |
その後30余年を経て、研究部門、施設の増加に伴い堂島地区は次第に狭隘となった。また新しい研究活動に対応し得る研究室と諸施設の整備充実のため、大阪大学の吹田キャンパス統合計画の第一陣として、昭和42年(1967)現在地に移転した。
平成5年(1993)8月医学部附属病院の吹田キャンパスへの移転を機に、癌の治療、研究などで多くの実績をあげてきた本研究所附属病院は医学部附属病院と統合、合併し、60年にわたる輝かしい歴史の幕を閉じた。本研究所では、これを契機として、微生物病、がん及び特定の難治疾患に関する学理及びその応用研究の一層の発展を図り、21世紀を展望した新しい研究体制を確立すべく、平成6年(1994)従来の部門制を転換し、大部門制への改組を行った。 平成17年(2005)には感染機構、生体防御、環境応答の3部門(15分野)に再編成するとともに、難治性感染症克服のために難治感染症対策研究センター(3分野)と感染症国際研究センター(2部門1室)を新設。また、ゲノム情報解析の研究開発を推進する遺伝情報実験センター(3分野)を学内共同教育研究施設から本研究所附属施設として統合、さらに、新興・再興感染症制圧に向けた国際研究拠点「日本・タイ感染症共同研究センター」をタイ国立予防衛生研究所内に設置した。平成21年(2009)6月には、文部科学大臣から共同利用・共同研究拠点として認定を受け、平成22年(2010)4月から活動を開始。さらに、遺伝子資源の確保と知的所有権の確保を目的とした「生体応答遺伝子解析センター」を新設した。
本研究所は、創立以来感染症の基礎的研究ならびにその制圧について研究を進め、新たな病原菌や病原ウイルスの発見、発病のメカニズムの解明、ワクチンや診断剤の開発など、我が国の感染症及び免疫学分野で多大の貢献を行って来た。また、がん研究の分野においても昭和11年(1936)にラジウムを使用した研究を開始するなど、他の機関に先駆けてがんの早期発見と治療法の開発に努力するとともに、がん発生のメカニズムの研究を推進した。この面においても、世界に先駆けた培養細胞の発がんの成功、がん遺伝子やがんウイルスの発見など多くの成果をあげ、がん研究の発展に大きく貢献した。また、難治性遺伝子疾患の研究においても一部原因遺伝子の単離とその機能解析など優れた研究が進展中である。 一方、本研究所で最初に発見された細胞融合現象は体細胞遺伝学の発展や単クローン抗体の開発などに貢献し、現代の生命科学の基礎を築いた。
なお、本研究所では全教員が本学大学院医学研究科(一部は理学研究科、薬学研究科、生命機能研究科も)博士課程ならびに修士課程の教育を担当すると共に人材の育成にあたっている。



















