研究内容

研究概要

「がん」は、ゲノムに生じる様々な異変を引き金として、大別して二つの段階を経て発生し、その後さらに進化し悪性化する。その一つの段階が「がん抑制遺伝子」の機能欠損による細胞の不死化であり、もう一つは「がん原遺伝子」の機能亢進や制御破綻(「がん遺伝子」への変異)による細胞形質の転換である。不死化によって、がんの防御機構としてのアポトーシスや老化が回避され、ゲノムへの変異がさらに蓄積されることになる。形質転換によっては、自律的な増殖能の獲得、細胞間コミュニケーションの破綻、細胞形態の変化、基質分解酵素や増殖因子の分泌亢進を伴う浸潤転移能の獲得などのがん悪性化形質が発現する。
当研究室では、本来正常遺伝子である「がん原遺伝子」の生理機能をまず理解し、その機能亢進による形質転換の分子機構の解明とがん克服のための新たな分子標的の開拓を目標とした研究を展開している。これまでに、がん形質発現において中心的な役割を担うチロシンキナーゼ型がん原遺伝子産物Srcに注目して、その生理機能や制御機構を解析してきた。現在、がんにおけるSrcの制御系の破綻機構や、Srcの機能亢進による形質転換・がん化機構の全容解明を目指して、多角的な視点からの研究を展開している。

(1)がんにおけるSrcの機能亢進とその制御機構

Srcは、膜直下に局在する非受容体型のチロシンキナーゼであり(図1)、正常細胞内では主に制御部位がリン酸化された不活性型で存在し、細胞外からの刺激に応答して活性化することによって細胞内シグナル伝達経路の分子スイッチとして機能する(図2)。ヒトのがんにおいては、Src遺伝子自体には変異はほとんど認められないが、がんの進行に伴ってタンパク質量や活性が増大することによって、Srcががん悪性化形質の獲得に大きく係わることが明らかにされている。しかしながら、なぜがん化にともなってSrcが機能亢進するのか、また、Srcが如何にしてがん悪性化形質を発現するのかなどの重要な課題に関しても未だに不明な点が多く残されている。
当研究室ではこれまでに、Srcの制御因子としてCskチロシンキナーゼおよびCsk結合分子Cbpを同定して、 Srcの機能抑制系を明らかにしてきた。また最近、がん化に伴いCbpの発現が著明に低下し(図3)、その再発現により造腫瘍活性が抑制されることから、 CbpがSrcの係わるがんの抑制因子として機能する可能性が示されている(図4)。現在、そのメカニズムの解析を通して、Srcの制御系破綻による機能亢進の仕組みの一端を明らかにしようとしている。
src structure src model
図1.Srcの構造。Srcは最初に同定されたがん遺伝子産物であり、最初のチロシンキナーゼでもある。 Srcはファミリー(SFK)を形成し、正常細胞ではシグナル伝達の分子スイッチとして機能する。
 
図2.Srcの活性調節機構。Srcは通常、C末端の制御部位(Y527)がCskによってリン酸化された不活性型で存在する。Y527が脱リン酸化されると活性型となるが、その状態ではまだ機能的ではない。細胞が増殖因子などの刺激を受けると、活性化した受容体やアダプターとSrcは結合し、自己リン酸化部位がリン酸化されてフルに活性化して機能する。活性化したSrcはCskによってリン酸化されて再び不活性型にもどるか、あるいはユビキチン化されて分解される。
 
cbp character cbp expression
図3.Cbpの遺伝発現がSrcによってがん化した細胞や、Srcの活性が高いヒトがん細胞および組織において著明に低下している。
 
図4.ヒト大腸がん細胞HT29にCbpを発現させるとヌードマウス皮下における造腫瘍活性が抑制される。
 

(2)膜ミクロドメインとSrcとがん

動物細胞の形質膜およびエンドソーム系に、コレステロールやスフィンゴ脂質に富むミクロドメイン(ラフト)が存在することが示唆されている。Srcや Cbpもラフトに局在し機能することが知られているが、最近の研究により、ラフトがSrcの形質転換活性に対してはむしろ抑制的に作用することが明らかとなっている(図5)。その作用機序をさらに詳細に解析することにより、Srcによる形質転換の新たな制御機構を明らかにしようとしている。
raft model
図5.SrcはラフトにCbpを介してトラップされるとその形質転換活性を失う。ラフトの外で異常に活性化することによってSrcは形質転換活性を獲得する。
 

(3)メンブレントラフィックとSrcとがん

さらに近年、当研究室では、Srcの新たな基質候補分子として、後期エンドソームのラフトに特異的に局在する新規のアダプタータンパク質p18を同定した(図6)。 p18は、MAPキナーゼ経路のMEK1の足場蛋白として知られるp14/MP1複合体と結合し、MEK1-ERK経路を後期エンドソームに特異的にリクルートする作用を持つ(図8)。また、p18欠損マウス組織などの解析から、p18がエンドソームのリサイクリングやリソソームへの輸送などメンブレントラフィックの制御で必須の役割を担うことも明らかとなってきている(図7)。さらに、p18に制御される細胞機能がSrcやRasによる形質転換と密接に関連することが観察され(図8)、現在、細胞の形質転換におけるp18の意義に関する解析を進めている。
p18 character p18 endocytosis
図6.p18の構造とp18欠損マウスの表現型。p18は、N末端の脂肪酸を介して後期エンドソームのラフトに局在化する。SrcおよびERKによるポテンシャルなリン酸化サイトが存在する。p18欠損マウスは胎生致死となる(胎生7日目頃)。近位内胚葉細胞の細胞内膜系(エンドソームやリソソーム)の配置や成熟に大きな異常が観察されている。
 
図7.p18欠損細胞ではここに示した様々なエンドソーム系反応において異常が認められる。
 
p18 hypothesis
図8.p18の機能に関する作業仮説。p18欠損細胞の形質が、SrcやRasにより形質転換した細胞の形質と強く関連することから、それらの形質転換においてp18を経由するMAPキナーゼ経路が使われる可能性が示唆されている。
 

 

以上の解析結果を統合して(図9)、Srcによる形質転換機構およびその制御機構の全容を解明し、それらの結果を踏まえて新たながん治療標的を開拓することを目指した研究を展開しつつある。
図9.当研究室における研究MAP(作業仮説)。Srcを中心とした細胞形質の制御機構、およびその破綻によるがん化(がん形質発現)機構の解明を目指した研究を進めている。
 
(注)図2、3、6の一部は、The Biology of Cancer (© Garland Science 2007)より引用。