トリパノソーマプロジェクト

トリパノソーマについて:我々の研究室で扱っているのは、Trypanosoma bruceiである。単細胞の真核生物で、アフリカ睡眠病の原因となっている寄生虫である。この寄生虫は、ツェツェ蝿によって媒介される。この吸血蝿がヒトを刺す時、トリパノソーマが蝿の唾液腺からヒトの血中に侵入してくる。ヒトの血液中で増殖し、病気が進行すると脳内に侵入するため、脳の機能障害を起こす。最終的には昏睡状態となり死に至る。アフリカで60万人がトリパノソーマに感染していると言われる。

トリパノソーマの細胞表面は、特定のタンパク質によって覆われている。このタンパク質の「覆い」は、宿主である人間の免疫システムから逃れるため、またツェツェ蝿の中で生き延びるため、とても重要な役割を果たしていると考えられている。宿主の血流中においてはVSGというタンパク質が、またツェツェ蝿の中腸内においてはプロサイクリンというタンパク質が細胞表面を覆っている。これらのタンパク質はGPIアンカーによって細胞表面につながれている。


近代科学の発展において、トリパノソーマは多大なる貢献をしてきた。その一つとしてあげられるのが、GPIアンカーの発見である。GPIアンカーは真核生物に広く存在するが、トリパノソーマにおいて、その構造が初めて決定され、また生合成経路が解明されたのである。しかしながら、関与する酵素や制御因子の同定においては、ほ乳類細胞における研究に後れをとっているのが現状である。我々の研究室では、分子レベルでのトリパノソーマのGPIアンカーの生合成の全容解明を目指して研究中である。

トランスアミダーゼ複合体:GPIトランスアミダーゼは、小胞体で作られたGPI分子を、タンパク質に転移するための酵素複合体で、GPI生合成の中でも重要な反応の一つである。その重要性を反映していると考えられる事実の一つとして、この酵素は少なくとも5つのタンパク質の複合体から構成されているということが挙げられる。ほ乳類のトランスアミダーゼ複合体も5つのタンパク質から成るのであるが、面白いことに共通なのは3つだけで、残りの二つは、機能の全くわからないユニークなタンパク質である。果たしてこれら5つの構成タンパク質はどのような役割を果たしているのだろうか?なぜ、ほ乳類とトリパノソーマで、構成タンパク質が異なるのだろうか?この違いは、薬剤開発の標的として利用することができるのだろうか?

イノシトールのアシル化:GPIのイノシトールは、脂肪酸によって修飾されることが良くある。これをイノシトールのアシル化という。ほ乳類細胞でもトリパノソーマでも起きるのであるが、生合成におけるイノシトールのアシル化のタイミングは異なっている。イノシトールが、なぜアシル化されなくてはならないのか?この問いに対する答えについては推測の域を出ていない。トリパノソーマでは、イノシトールのアシル化は、興味深い挙動を示す。すなわち、トリパノソーマがヒトの血中に生息しているときと、蝿の中腸に吸い込まれたときで、異なるのである。具体的には、蝿の中腸では、トリパノソーマのプロサイクリンと呼ばれるGPIアンカー型タンパク質は、全てイノシトールがアシル化されている。一方ヒトの血中では、トリパノソーマのVSGと呼ばれるGPIアンカー型表面タンパク質のイノシトールは全くアシル化されない。これはなぜかというと、ヒトの血中においては、トリパノソーマのGPIが生合成の過程でいったんイノシトールのアシル化を受けるのに、それをわざわざ取り外すからである。なぜいったん付いたアシルを、ヒトの血中においてのみ、わざわざ取り外すのか?取り外せないようにしたら、どうなるのだろう?イノシトールのアシル化の生理的な役割はなんなのだろう?



GPIのシアル酸による修飾:ツェツェ蝿の中腸内において、トリパノソーマのGPIアンカー型タンパク質プロサイクリンは、シアル酸を末端に持つオリゴ糖によって修飾されている。このシアル酸は、小胞体やゴルジ体でのGPI生合成の過程で付加されるのではなく、プロサイクリンがトリパノソーマの細胞表面に運ばれたあとに、細胞表面のトランスシアリダーゼという酵素によって転移される。転移されるシアル酸の供与体は、ツェツェ蝿中腸内に存在しているシアル酸含有物質であると考えられているが、具体的にはわかっていない。これは、言ってみれば、トリパノソーマが、シアル酸をツェツェ蝿から盗んでいるということなのであるが、果たしてなぜこのような事をするのであろうか?最近、我々は、シアル酸を付加することのできないトリパノソーマの変異体を作成することに成功した。すると驚くべき事に、このトリパノソーマのミュータントは、中腸内での増殖能を失ったのである。果たして、シアル酸の生理的な役割はなんなのか?分子レベルでの解明を目指して研究を進めている。同時に、細胞表面に存在しているトランスシアリダーゼが、薬剤の標的として有望であるという観点から、治療薬開発への応用研究も進めている。

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